~ 菜 乃 庵 ~

ユルイ生活blog.目指せオトナのsimple life.

無責任な発言

先日、少し遠くに住む友人から「今、近くにいるんだけど」という突然の連絡を受けて、一年半ぶりに会いました。待ち合わせしたのはファミレスで、時間がお昼すぎとあってかなり混雑していて、こんなとこじゃ落ち着いて話も出来ないなーと思ったけど、他にいい場所を提案することも出来ず、こんな時に車を持ってればなぁと思った。全くね…。

その人の近況は時々聞いていて、でも詳細は全然知らなくて、根ほり葉ほり聞きたい気持ちはあったけれど、聞いたら答えたくないことも出てしまうだろうと、出来るだけ話題は世間話よりにして、その人が話し始めたら聞くつもりでいた。でも今考えたら、質問したほうが言い出しやすいってこともあったかもね、かもね、そうかもね。(←いやだ古い)


今日は私自身の気持ちのメモです。長文なので、興味のない人はスルーして下さいね。



「その人」が特定されると困るので、性別、病名、それ、これ、等諸々の詳細は伏せさせていただきます。



その人は少し前に病気が発覚して、入院されてました。手術もされましたが完治するものでなく、今すぐ命に別状はないけれども、ゆっくり進行していく病気です。進行を止めるには「それ」は止めるべきで、状況を考えれば「これ」も止めるべきとの判断が出たようですが、本人は「それ」も「これ」も止めるつもりはないそうです。「それ」と「これ」はその人にとっては精神衛生上必要なもので、でも命が大切だと思うならば、一般的には止めたほうがいいし、続けるというのは一種の自殺行為になると思います。

そのことをその人のご家族がどう思ってらっしゃるかは聞きませんでしたが、こっそりとか、内緒で、という言葉が出てきたので、当然のことながら快諾されているわけではないんだろうなぁと思います。ただ、快く思っていないとしても「これ」に関するお金の振り込みをしてきたと言われていたので、本人の意思が固く、渋々受け入れていらっしゃるのかも知れません。

ご家族の方と摩擦があるかないかはともかく、命に関わる「それ」と「これ」を止めないというその人は、ちょっと開き直っているような印象を受けました。でもそれを聞いた私はかなり無責任に「前向きだなぁ」と思ったのです。本当に無責任です。本人には言いませんでしたが、当然前向きなんかじゃないでしょう。開き直りでしょう。投げやりでしょう。多分。だけどモノは考えようです。


病気のこととその他もろもろを含めて、かなりストレスを感じていらっしゃるようで、心療内科にも通われていると聞きました。その人は少し考えすぎるところがあって、元々精神的に強い方ではないと思ってました。だから「鬱」にならなければいいな…と私は勝手に心配もしていて、幸いそうじゃないようで少しだけ安心しました。

で、私はもう立場的にとても無責任な位置にいるし、その人の取り巻く環境と私の取り巻く環境は全く違うので、私の言うことなんて笑うしかないと思うのですが、私も「それ」と「これ」は無理に止めなくていいんじゃないかなーと思うのですよ。あーあ、言っちゃったよ。無責任発言(苦笑)本当に命に関わることを「怖い」と感じ始めたら止めるかもしれないし、それでも止めないかもしれないけれども。


私には守らなければならない家族や子供がいないので、こんな無責任なことが言えるのかもしれない。でも、でもね。もし自分の身内がそういう状態になったとき、別に余命宣告を受けたわけでもないんだけど、何もかも取り上げてしまって暗い顔して毎日過ごすより、少しでも明るく楽しい時間を過ごしているのを見るほうがよくないかなぁ。そういうのは、自分のことばかり考えて家族や周囲を大切にしていないと思う人もいるかもしれないけれども、本人から見ればそれは周囲も同じじゃないのかなぁ。

私は自分の大切な人がそうなってしまったら、大切な人の笑顔を少しでも見たいと思うのですよ。「それ」と「これ」が命に関わることであっても、それがその人の楽しみだったり支えだったりするなら、ほどほどにとは思うものの、やっちゃえやっちゃえ楽しんじゃえって思うんですよね。うん。これは本当に無責任だし、家族を持っていないものの言い分なのかも知れないけれども。

守りに入ってつまらないなーと長く生きるよりは、攻めに入って楽しいなーと短く生きるほうを私なら選ぶ。身勝手とわかっていても。どっちがいいとかじゃないですよ。私ならそう思うし、だからその人の話を聞いて「それでいいんじゃない」って思っちゃったんですよね。もちろん責任を果たすことも大切ですが、自分の人生どう生きたいかも大切だと思うのです。

何のために生きるかっていえば、やっぱり自分のためですよ。自分のために生きて、楽しんで、笑って、それを見て周囲も幸せになるのが一番だと思うのですよ。だって一番辛いのは本人ですから。全てを受け止めて克服しなきゃならないのは本人ですから。本人が少しでも気持ちが楽になる状態を作って笑っていられるなら、見守ってあげたいし一緒に笑ってあげたい。もちろん長生きして欲しいし、その気持ちは常に伝えながら。


「それ」と「これ」を続けるということは、寝たきりになる日も、機械に頼ってしか生きられなくなる日も当然早く来ると思います。命がなくなる日も早く来るでしょう。その時に本人が後悔せず、納得出来るのならいいんじゃないかなぁと。自分が楽しく生きたと最後に思えるなら、人生何でもアリだと私自身は思うんですよね。

まぁ周囲に迷惑をかけることになるのも見えているので、その時に何を言われても耐える覚悟は必要ですけれども。死んでしまえば終わりですが、本人が覚悟決めてそうしているのなら、周囲も覚悟決めてそれを受け入れてあげるのも愛じゃないかなーと。ヒトゴトでしょうか。でも私ならそうしてあげたい。

その人はご家族のことを全く愚痴らなかったし、嘆かれてもいなかったので、ご家族の本当のところは知り得ないことですが、応援はされてなくとも摩擦(ストレス)がなければいいなーと思いました。


その人はその日笑顔が少なくて、活気も覇気もなかった。病み上がりな雰囲気がまだ残っていて、心身ともに余裕のない感じが見てとれました。一時間くらいだったけど、結構話をした方かな。ただもっと愚痴らせてあげたかったなぁと反省しました。お行儀のいい話ばかりをしていた気がする。それがすごく残念でした。

その人がどうして私に会いに来てくれたのかはわからないです。一度会おうよと言いつつ延び延びになっていたから、その約束を果たしたいだけだったのかも知れないし、あるいはちょっと話をして気分が軽くなればと思われたのかも知れない。本当に近くまで来ただけで、ふと気が向いたそれだけのことかも知れない。

顔を見た瞬間に「久しぶり」とか「元気そうだね」とかそんな会話もなく、もちろん「会いたかったね」とか「やっと会えたね」という言葉もなく、「今日はありがとう」もなく、「また会おうね」でもなく、何かを期待されていたのなら、その期待に応えてあげられたのかどうかもわからない。でも場所が許すのなら抱きしめてあげたかったし、「よく頑張ったね〜」って言って頭を撫でてあげればよかった。

別れ際にしっかり目があった時に、あぁもしかしたらもう会えないのかなぁーと考えたりもしました。ま、私は時々深読みしすぎる傾向にあるので、そうじゃないほうが嬉しいです。うん。また会いたいし、笑顔が見たい。その人の気持ちが少しupしてきたら、もう少し気軽にメールとか出来るようになれるといいな。お腹を抱えて一緒に笑いたい。


あーなんか支離滅裂ですが、いいのです。自分用のメモだから。その人がここを見ているかどうかは知りません(汗) 出来れば「それ」はほどほどにと、こんな私でも思います。