~ 菜 乃 庵 ~

ユルイ生活blog.目指せオトナのsimple life.

くだらなーい(笑)

「いいか!?邪魔すんなよ!?絶対邪魔すんなよ!!?」

↑すごくくだらないけど、突っ込みが笑えたw しかも最後それで納得かよっ!て。


で、思い出したこと。

小学生の頃、3羽のヒヨコを育てたことがある。しかも3羽ともりっぱな鶏になった。鶏を飼っていた家は、うちくらいだったかなぁ(笑)

うちは田舎などではなく、普通の住宅街にあった。決して大きくはなかったけれど、一応庭があって、犬と猫は常に飼っていた。

住宅街で朝一番に鶏が鳴く。コケーッ!コッコッコォー!迷惑だったろうなぁ。


以下、スズメじゃなくて、3羽にちなんでヒヨコのお話です。


地元のお祭りは秋にあって、夜店もたくさん並んで賑やかだ。お察しの通り、ヒヨコは夜店で買ったもの。カラーヒヨコでもなく、ヒヨコ釣りでもなく、普通にヒヨコが売られていた。今思うと何故?

毎年可愛いヒヨコを見ては欲しくなる。ヒヨコが鶏になることを理解していなかったのか。それまでにも一度、ヒヨコを買ってもらったものの、犬や猫に狙われて☆にしてしまった。妹と私は泣きながら庭にお墓を作った。

その年のお祭りに、懲りずに弟妹と共に1羽づつヒヨコを買ってもらった。10月も半ば、両親は子供が飼うヒヨコなんて、またすぐに死んでしまうと思ったんだろう。

それでも母は、生き物に対する愛情は惜しみなく与える人で、いろいろ協力してくれた。市場からもらってきた段ボール箱にヒヨコを入れて、「犬と猫に気を付けて、責任をもって育てなさい」と私達に言った。3羽のヒヨコは段ボールの中で、ピヨピヨ鳴いて可愛かった。


10月も末になると夜は寒くなるので、ヒヨコの段ボール箱の中にアンカを入れてもらった。アンカを不要になった服でくるみ、コードは突かれないようにナイロンテープで巻いておく。

ヒヨコはすくすくと育ち、中ヒヨコになった。まず手のところが黄色いフワフワの羽から、白くて固い羽に生え替わる。段ボール箱の中から顔を出し、アンカを踏み台にして脱走を試みる奴もいた。

ヒヨコが鶏風情になってくると部屋中が臭くなり、家の中では飼えなくなってきた。みかねた父が日曜大工で庭に鶏小屋を造ってくれた。糞尿が洗い流せるように床底はなかったけれど、小屋の一角には寝床がちゃんとあって、近くの田圃から藁をもらってきて敷いた。

もちろん育てたって卵は産まない。夜店で売られているヒヨコは雄ばかりだから。


鶏の餌を作るのは私達の仕事だった。学校から帰ってくると、春の七草の一つ「はこべ」を探し回った。2月くらいから畑にはびこるあの「はこべら」だ。英名チックウィードは鶏の雑草の意。ヒヨコ草ともスズメ草とも言う。小鳥は好んでこの草を食べるのだ。

鶏の餌は「はこべ」と「貝」と「米ぬか」を混ぜたもの。なんで母はこんなこと知っていたんだろう?

はこべは細かくみじん切りにする。貝は夕食で出たアサリやシジミの殻を金槌で砕き、すりつぶす。それに米ぬかと少々の水を混ぜてやるのだ。家の隣がお米屋さんで、米ぬかはタダでもらえた。だから、鶏の餌は全てタダだった。

お天気のいい日には犬と猫を綴じ込めて、鶏を庭に放した。花壇の土が柔らかい所を掘って、小さい虫やミミズを食べていた。休みの日には鶏を抱いて、いつもとは違う美味しいものを食べさせようと、近くの畑や田圃に散歩に連れ出した。今考えると大胆!


鶏はよくなついた。呼べばついてくるし、膝の上でくつろいで気持ち良さそうに羽を伸ばす。撫でれば目を閉じて甘える。鶏冠が気持ち悪いなんて、その頃は思わなかった。うちの妹はよく膝の上に鶏をのせて、庭のブランコで揺れていた(うちの庭にはブランコと滑り台があった)。

すっかり暖かくなった頃。春だったか初夏だったか、鶏の鳴き声がウルサイと苦情がきた。近所に子供と動物の嫌いな人がいて、そこのご主人はうちの犬にしょっちゅう石を投げていた。

おかげで庭にある犬小屋の近くには、大小の石がいくつも落ちていた。塀の外から闇雲に、犬に向かって投げ入れるのだ。私達にあたっていたらと思うとゾッとする。


犬はともかく、住宅街で鶏はさすがにヤバイと両親は思ったのか、当時鳥取にいた親戚に声をかけて、引き取ってもらうことになった。苦情は大いなるキッカケになった。

その日、学校から帰ると鶏小屋にはもう鶏はいなかった。おぢさんも帰ってしまった後だった。

大人になってから聞いた。食肉にするためにつぶしたんだよ、と。その日の夜が鶏肉料理だったかどうかまでは、もう覚えていない。